こんにちは。けいちん(@Kco_nakajima)です。
房総方面での釣りのあと、千葉の三大ラーメンの《竹岡式ラーメン》を食べようと地図を検索しているときに偶然見つけた柱のようなもの。
一定距離を開けて並んでいますが、コレは富津市の湊川を渡る内房線の旧橋脚の遺構です。
コレ↓

ストリートビューで見れば正体はわかっちゃうんですけどね。

湊川橋梁の旧線の橋脚が残っているのです。
現地《調査》してみることに !
煉瓦造り 旧湊川橋梁について調べてみました
旧湊川橋梁の詳細な場所と地図
富津市から国道127号線を金谷方面へ向かい、上総湊駅を過ぎ湊川を渡る橋の手前を海側に入ると内房線の現役線と重なるように旧線の橋台が見えます。

旧湊川橋梁の歴史
内房線の成り立ちと照らし合わせると
1915年(大正5年)木更津駅~上総湊駅間開業
1916年(大正6年)上総湊駅~浜金谷駅間開業
とのことなので、この旧湊川橋梁も鉄道の開通と同時の1916年(大正6年)に開通ということでしょう。
関東大震災の被害により旧線から現役線へ架け替えに
資料によると、架け替え後の現在の橋、開通は1925年(大正14年)となってます。
1923年(大正12年)の関東大震災の被害により架け替えとなりました。
旧湊川橋梁 現在の様子をレポ

海岸沿いにある公園に車を停めて出発。

道を渡る部分の橋台が見えてきました。
まず、上総湊駅側の橋台。

煉瓦を使った重厚な造り。

渡してある鉄筋は当時の橋の遺構ではなく、あとからおそらく高さ制限を示すために渡した鉄筋。



次に、竹岡駅側の橋台。





上総湊駅側の橋台から続く築堤はそのまま現役線の築堤と合流しているよう。
ストリートビューで見た橋脚は竹岡駅側の橋台からの築堤の先にあるようですが、周りは民家が建ち並んでいるのでダイレクトに行かれない。
もと来た道を戻り、湊川に降りれそうな小路を探してみる。

突き当りで現役線の方を覗くと…


あった !!
さらに湊川へ降りる方向へ。



湊川まで降りられた。旧橋脚まで近づけるのだろうか。



おーーー !! 実物だ !!

先ほど見た道路を渡る陸橋の築堤からつづいての橋台。鉄道があったであろう天端はいまでは草で覆われている。

手前は民家や個人の畑になっていて、近づけない。

こちらからも、JRの管理地になっていて近づけない。金網からカメラだけ覗いての撮影。

5本目のこの橋脚は半分が金網の外にあるので触れることもできる。
関東大震災の際の被害状況を土木図書館デジタルアーカイブスで見ることができる。
![]()
国有鉄道 北条線上総湊浜金谷間湊川橋梁千葉方川上より見たる第九号
土木図書館デジタルアーカイブスより引用
5本目の橋脚が第五号だとして等間隔で六号、七号と建っていたとすると、この画像の第九号の橋脚というのは湊川に入ってすぐに建っていた橋脚と考えられる。

現役線の橋脚と線路。煉瓦造りの橋脚より若いとはいえ、旧線から架け替えたのは1925年(大正14年)ですので、こちらの橋脚もだいぶ年期が入ってるはず。

現役線の橋梁がつづく先の対岸にあるのは

コチラにある橋脚と同じものが2本確認できます。
じつは川の中にも旧橋脚の遺構があるのですがこの日は海水の満ち引きの影響で目視で確認することはできませんでした。
![]()
国有鉄道 北条線上総湊浜金谷間湊川橋梁第十六号橋脚の大亀裂移動(千葉方より望む)
土木図書館デジタルアーカイブスより引用
対岸にある旧橋脚の遺構の川側にこの十六号橋脚が建っていたのだろうか。
まとめ
旧湊川橋梁を《調査》してみました。
堅牢な煉瓦造りの橋台や橋脚が、震災の影響でたった9年ほどしか使われてなく、その後、90年ものあいだそのままの形で遺っているのを見ると、その空間だけ時間が止まっているかのように感じました。
場所の詳細はコチラ♪
この橋梁以外にも、房総半島にはときどきハッとするような煉瓦造りの堅牢な建造物を見ることができます。
釣りでよく行く房総半島なので、こうした、遺構やまだまだ現役のものなど、またレポしていきたいとおもいます。